2006/09/07
仮想としての「響き」の存在
茂木さま,
この分水嶺について「作曲過程」から考えてみます。
我々作曲家は対位法,和声法,楽式法など,いわゆる作曲学として確立された種々の学術大系のもとで作曲技法を学び,そしてそれらを駆使して作曲という営みを行っています。
我々作曲家の表現媒体である空気の振動現象「音」は,その基本4要素を,音高,音強,音価,音色とし,また,「音楽」の基本4要素は,旋律,和声,リズム,音色とされ,それを扱う学術大系として先述の作曲学が整備され,それら音楽の基本4要素を,音の基本4要素に落とし,五線紙上に確定し,記譜するための技法として,西洋近代科学の方法論のもと学術的にも確立していきました。
しかし,作曲家が新しい楽曲作品を創るとき,我々は決して旋律を考え,和声を考え,リズムを考えて作曲しているのではありません。楽音は確かに4つの基本要素(音高・音強・音価・音色)に分解可能であり,またその4つの要素でひとつの音は一意に決定されますが,音楽はその4つの基本要素(旋律・和声・リズム・音色)に分解することは本来不可能であって,またその4つの要素を組み合わせても音楽にはなりません。
作曲家は,新しい音楽を創る過程では,旋律も和声もリズムもさらに音色もすべて混然一体となった,いわば「仮想としての響き」を,そしてその時間的変化を,作曲者自身のメンタル・スペースの中で表象しているのであって,その過程はかなり強い非線形性を持っていると考えざるを得ません。
なぜなら,システムの対象が,その要素に分解でき,かつ分解された要素を組み立てることで元の対象が再現可能となる「重畳の理」が成立する線形空間では説明できないからです。よって,AnalysisとSynthesisが可換な空間ではないのが「音楽」の世界であって,そのような非線形な空間における作業は「構成論的方法」(Analysis by Synthesis)に依らざるを得ません。トップダウン的な演繹過程ではないのですね。ボトムアップ的な創発過程と言ってもいいかもしれません。
そして次にこのことを,仮想としての響きではなく,現実の響き(つまり楽曲)を聴いているときのことで考えてみますと,その楽曲を構成しているある要素を中心に捉えながら聴いているときと,それら数々の要素が織りなすテクスチュアを聴いているときがあり,その認知過程の対象が,時間とともに素早くかつ不規則に移り変わることを経験することがあります。ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》第1幕の前奏曲などはその典型です。
しかし,視覚認知にある「ネッカー・キューブ」や「ルビンの壷」あるいは「老婆と若い女」の図などで知られる視覚認知におけるバインディング・プロブレムは,聴覚認知の,特に「音楽」の認知においては明示的には生じていないと考えています。つまり,"winner-take-all competition" ではないのですね。
つまり,音楽の認知過程(音の認知過程ではなく)においては,視覚認知のような "winner-take-all" ではない,ambivalentな偶有性にその面白さが隠されているのではないかと思います。そしてそれが音楽を意味として接地させるときの分水嶺になっているのではないかと考えています。
脳科学の専門でいらっしゃる茂木さんは,そのあたりのことをどのようにお考えであるか,とても興味のあるところです。
この分水嶺について「作曲過程」から考えてみます。
我々作曲家は対位法,和声法,楽式法など,いわゆる作曲学として確立された種々の学術大系のもとで作曲技法を学び,そしてそれらを駆使して作曲という営みを行っています。
我々作曲家の表現媒体である空気の振動現象「音」は,その基本4要素を,音高,音強,音価,音色とし,また,「音楽」の基本4要素は,旋律,和声,リズム,音色とされ,それを扱う学術大系として先述の作曲学が整備され,それら音楽の基本4要素を,音の基本4要素に落とし,五線紙上に確定し,記譜するための技法として,西洋近代科学の方法論のもと学術的にも確立していきました。
しかし,作曲家が新しい楽曲作品を創るとき,我々は決して旋律を考え,和声を考え,リズムを考えて作曲しているのではありません。楽音は確かに4つの基本要素(音高・音強・音価・音色)に分解可能であり,またその4つの要素でひとつの音は一意に決定されますが,音楽はその4つの基本要素(旋律・和声・リズム・音色)に分解することは本来不可能であって,またその4つの要素を組み合わせても音楽にはなりません。
作曲家は,新しい音楽を創る過程では,旋律も和声もリズムもさらに音色もすべて混然一体となった,いわば「仮想としての響き」を,そしてその時間的変化を,作曲者自身のメンタル・スペースの中で表象しているのであって,その過程はかなり強い非線形性を持っていると考えざるを得ません。
なぜなら,システムの対象が,その要素に分解でき,かつ分解された要素を組み立てることで元の対象が再現可能となる「重畳の理」が成立する線形空間では説明できないからです。よって,AnalysisとSynthesisが可換な空間ではないのが「音楽」の世界であって,そのような非線形な空間における作業は「構成論的方法」(Analysis by Synthesis)に依らざるを得ません。トップダウン的な演繹過程ではないのですね。ボトムアップ的な創発過程と言ってもいいかもしれません。
そして次にこのことを,仮想としての響きではなく,現実の響き(つまり楽曲)を聴いているときのことで考えてみますと,その楽曲を構成しているある要素を中心に捉えながら聴いているときと,それら数々の要素が織りなすテクスチュアを聴いているときがあり,その認知過程の対象が,時間とともに素早くかつ不規則に移り変わることを経験することがあります。ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》第1幕の前奏曲などはその典型です。
しかし,視覚認知にある「ネッカー・キューブ」や「ルビンの壷」あるいは「老婆と若い女」の図などで知られる視覚認知におけるバインディング・プロブレムは,聴覚認知の,特に「音楽」の認知においては明示的には生じていないと考えています。つまり,"winner-take-all competition" ではないのですね。
つまり,音楽の認知過程(音の認知過程ではなく)においては,視覚認知のような "winner-take-all" ではない,ambivalentな偶有性にその面白さが隠されているのではないかと思います。そしてそれが音楽を意味として接地させるときの分水嶺になっているのではないかと考えています。
脳科学の専門でいらっしゃる茂木さんは,そのあたりのことをどのようにお考えであるか,とても興味のあるところです。