2006/11/18

偶有的音楽体験

茂木さま,

言語学的な「意味論」(semantics) として音楽を聴くのか,音響学的な「質感」(texture) に音楽を接地させるのか,といった問題を考えているうちに,今回は特に音楽作品の持つ視覚的イメージから受けるクオリアに焦点を置いてプログラミングすると面白いのではないかということに気づきました。そしてそのプログラムには拙作だけでなく,強力な助っ人として武満さんの作品をそこに入れることをいま考えています。下記がその案です。奇しくも10年間隔の作品が並びました。

・プログラム(案)曲順未定
武満 徹《ノスタルジア》(1987) 独奏Vnと弦楽Orch
江村哲二《ハープ協奏曲》(1997) 独奏HpとOrch
江村哲二《 新作初演 》(2007)

〜アンドレイ・タルコフスキーの追憶に〜というサブ・タイトルを持つ《ノスタルジア》は,もちろんタルコフスキーの作品 "Nostalghia" に依っています。タルコフスキーの映画の特徴的なイメージである水や霧の感覚質(クオリア)が全曲を支配しています。

そして小生の《ハープ協奏曲》は,雨が上がったばかりの森の中,枝葉からほぼ規則的に落ちる雨だれと,葉の上に溜まった雨がその重みに耐えかねて不規則的(カオティック)にバラバラっと葉先からそのかたまりが落ちる二つの情景が通奏低音として全曲に流れています。

どちらも穏やかで静かな音響的風景が視覚的イメージに喚起されることが特徴です。そしてそれらの上に,今度は茂木さんの言語センスを借りて,また別のもうひとつの音楽体験を創れないかと考えているのです。

音楽から見ると言語というのはとても力強く頼もしいのですね。作曲家は女々しいけど作家は男性的(笑)。音楽に比べて解釈の余裕をあまり与えてくれない。しかし,そこに音を加えることでそれをオブラートに包むことができる。逆に音楽という表現は言語表現に比べればずっと抽象的であるわけです。かなり幅の広い解釈可能な余地をそこに残している。そしてそこに言語を加えることで曖昧模糊としたその原っぱに,あるひとつの誘導路を設けることができます。

そして私がいま考えていることは,時間軸上のその展開が,そのふたつにおいて,contingent(偶有的)な体験として作曲できないかということです。そしてその可能性の切り口のひとつに「朗読」があるのではないかと考えています。歌曲ではなくてです。

サルバトーレ・シャリーノというイタリアの作曲家は,レチタティーヴォとアリアの境界領域とも呼べる作法で極めてユニークなオペラを書いています。
http://www.horie-nobuo.com/ono/review/r06.html

もちろん,私はシャリーノのようなことをやるつもりはありませんが,音楽における言葉の叙述的扱い,そしてそこから受ける視覚的イメージへの喚起というのは,いま作曲家に与えられた非常に大きな可能性を秘めた領域ではないかと思うのです。

This page is powered by Blogger. Isn't yours?