2006/10/01

新作構想

茂木さま,

今年の1月に《地平線のクオリア》(2005) というオーケストラ作品を発表しました。大野和士さんの指揮による新日本フィルと仙台フィルの初演です。武満さんの若い頃の傑作《地平線のドーリア》(1966) のタイトルと韻を踏んだようなタイトルを持つこの作品は,〜武満徹への追憶に〜 という副題が付いています。その初演時のプログラム・ノートから引用します。

「作曲とは聴くということ。それ以外の何でもない。このことを教えてくれたのは武満さんであった。自分の内なるところから湧き上がる音の響きにじっと耳を傾けること。それが作曲である。しかし,その響きは,あたかも地平線の上に在るが如く,それを手にしようと追いかけても,決してそれを実体として摑むことはできない。その響きは,私が私であるという証でもあり,自分という体験でしか語ることのできない《クオリア》である。そのクオリアへの果てしない憧れによって作曲家は作品を書き続けているのである。」

武満さんには,同じ頃のもうひとつの傑作として《テクスチュアズ》(1964) という作品があります。武満さんは(先の記事で書きました)作曲過程における我々の脳内に存在する「仮想としての響き」を聴き取ることこそが作曲であるといち早く気がついたひとであったように思います。「作曲」ということを「聴く」ということに還元してしまったひとであると言ってもいいと思います。そして,武満さんが語ったこの「テクスチュア」とは「クオリア」のことであったのだと気づかせてくれたのが,実は茂木さんの《脳とクオリア》(1997) なんです。

《地平線のクオリア》の作曲にはかなり長い時間がかかっていて,12分の規模に数年間はかかったように思います。そして4夜にわたるその初演を終えて,今回の自分の作品について内省しているうちに,次はテクストを伴った作品にしようとひらめきました。

自分のブログにも少し書きましたが,作曲というのは非常にローカルなマッピングで成立しているのであろうと思います。新しい作品が生まれてくる段階においてはグローバルな意味論はほとんど存在していない。しかし,ローカルなユニヴァーサリティと言ってもいいのでしょうか。そこにこそグローバルな可能性を秘めていると思うのですね。そしてそのことを特に強く感じさせるのがテクストの介在なのです。

今回の茂木さんとのコラボレーション作品,私はいま,茂木さんにはテクストを書いて頂けないであろうかと考えているのです。茂木さんは世界的な脳科学者であるけれども(私如きがこんなこと言うのは本当におこがましいのですが)それだけに留まることなく,茂木さんの言語表象が本当に素晴らしい。だから,私としてもそれを放っておく手はない(笑)。

しかし,今回のそれは,オペラとかモノドラマとかではなく,ストーリー性を曖昧にした,もっと抽象的な散文詩のようなもの,例えばドビュッシーの《牧神》におけるマラルメのエグローグようなものですね。そういうことを考えています。ただし,その抽象性のままにそれを明示的にしたいものですから,曲の中にその詩の朗読を入れてしまう。

でもそれは「歌」ではないのです。歌にしてしまうと,詩が歌詞になってしまって,歌が独奏になってしまうのですね。詩が歌詞になって独唱されてしまったとたんにその世界が矮小化してしまうことを感じることがよくあります。

つまり,詩は管弦楽と同じテクスチュアの中に入れてしまわなければならない。オケは大阪センチュリー交響楽団なんですが,2管編成の小さめのオーケストラなんです。それも幸いしています。打楽器はできるだけ少なくして,ハープ,チェレスタ,ピアノを入れる。そう,コンチェルト・グロッソに近い。コンチェルティーノに詩の朗読が入る。もちろん先の理由から古典的なコンチェルティーノ対リピエーノといったような形態は取りません。

加えて,初演される大阪のいずみホールは,基本的な内装が木で出来たとても柔らかな空間なんです。ちょっとウィーンの楽友協会に似ています。ステージがユニークなので,朗読を含めて楽器の配置もちょっと工夫しようかと考えています。

こう考えているときが一番楽しいときなのですが,茂木さん,いかがでしょうか。先々のことを考えると茂木さんが得意な英詩でもいいかもしれない。韻律が弦楽に乗りやすいですし。もちろん散文詩のそのテーマは相談しようと思っています。

江村哲二

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