2006/12/31
An Ode to the Potentially Infinite.
An Ode to the Potentially Infinite.
Ken Mogi
written for the music of Tetsuji Emura
31st December 2006
Humans by their nature are cognitively closed,
as consciousness can get to know only itself.
Intimacy is privileged, exclusive, and selective.
By loving, we close our eyes to the passers by.
Everything is seen through a foggy mapping
of shadows cast on one's inner cosmos.
Qualia mirror the essence of things just so,
reflecting one's own prejudices and dreams.
Yet we mortal souls are not entirely alone,
life's poignant collision kick-starting our lives.
Mother caring for baby, father doing the nightshift,
raindrops of fortune occasionally falling from the sky.
Meeting people, learning how to care,
we extend our horizon, however slowly.
In the twilight we learn to aspire far away,
knowing that the star is never reachable.
Ruby at dawn, emerald in high noon.
As long as there's a "next", life showers us with gems and things.
We breathe in that sweet air of potential infinities,
the material of all that is bright in life.
As mortal beings, we do not know the end,
terminality unforeseen converted to fragile blessings.
Spring is eternal, as we drink from the cup
oblivious of the fest's final moment.
So here's an ode to the potentially infinite,
a ray of sunbeam in our humble existence.
Freedom, hope, beauty and love
all good things come from that well.
And finally, through the mind's fog
we faintly hear the footsteps
of those who remained in silence all our lives,
the long forgotten passers by.
Ken Mogi
written for the music of Tetsuji Emura
31st December 2006
Humans by their nature are cognitively closed,
as consciousness can get to know only itself.
Intimacy is privileged, exclusive, and selective.
By loving, we close our eyes to the passers by.
Everything is seen through a foggy mapping
of shadows cast on one's inner cosmos.
Qualia mirror the essence of things just so,
reflecting one's own prejudices and dreams.
Yet we mortal souls are not entirely alone,
life's poignant collision kick-starting our lives.
Mother caring for baby, father doing the nightshift,
raindrops of fortune occasionally falling from the sky.
Meeting people, learning how to care,
we extend our horizon, however slowly.
In the twilight we learn to aspire far away,
knowing that the star is never reachable.
Ruby at dawn, emerald in high noon.
As long as there's a "next", life showers us with gems and things.
We breathe in that sweet air of potential infinities,
the material of all that is bright in life.
As mortal beings, we do not know the end,
terminality unforeseen converted to fragile blessings.
Spring is eternal, as we drink from the cup
oblivious of the fest's final moment.
So here's an ode to the potentially infinite,
a ray of sunbeam in our humble existence.
Freedom, hope, beauty and love
all good things come from that well.
And finally, through the mind's fog
we faintly hear the footsteps
of those who remained in silence all our lives,
the long forgotten passers by.
2006/12/20
聴くということ
このコラボレーションにおいて,茂木さんとの対談の中でも話題になりました「聴くということ」。
私のブログで発表済みの記事の中で,私がそれに気づくことになった経緯を記載したエントリーがありますので,それをここにも再掲致します。
http://tetsujiemura.blogzine.jp/emutet/2005/08/post_d8f3.html
「聴くということ」
武満徹さんというひとは、「作曲」ということを「聴く」ということに昇華してしまったひとである。しかし、その武満さんの先達には、実はジョン・ケージがいる。武満さんはケージを尊敬していた。
しかし、私にはそれがなかなかわからなかった。ケージがわからなかったからである。偶然性を取り入れた彼の作曲がどうしても理解できなかったのだ。しかし、ケージの作品はとても美しい。並々ならぬ魅力に溢れている。どうしたものか。
ところが、ある日、その疑問が一気に払拭されることがあった。笙の宮田まゆみさんと話していたときのことだ。話はジョン・ケージが宮田さんのために書いた作品《One-9》に及んだ。これはケージが宮田さんの立ち会いのもと、共同作業として生まれた作品である。
巨大な扇風機がわんわんと鳴り響く騒々しい倉庫のようなニューヨークの一室で、例によって八卦を持ってケージは作曲を始めたらしい。八卦を振ってそれによって音を決めていく。それを宮田さんがすぐ音にしていったそうだ。それだけ聞くとやっぱりインチキくさいと思った。
しかし、驚いたのはこれからだ。
「で、八卦を振って音にしてみたら(ケージ自身が)この音は気に入らないということはないのですか?」
「いえ。もちろんあります。その音は使わないだけです」。
「は?」
「八卦を振っても、自分が気に入った音しか使いません」。
なんだ。そんなことだったのか。ここで一気に疑問が氷解した。ケージは何も別に八卦や骰子を使った音楽を作曲しているのではない。ケージは、音を決めるために八卦や骰子を振っていたわけではない。これは単にポーズにすぎない。
つまりケージが、八卦を振るとき、骰子を振るとき、そのときにはすでに彼の頭の中ではこれから自分が書こうとしている音楽がすでに鳴り響いているのだ。ケージは自分の頭の中に鳴り響く音楽を、ただそれを楽譜に書き移していたにすぎない。ほとんどモーツァルトと同じである。別に八卦や骰子をころがして音なんか決めていないのだ。
この話は目から鱗であった。武満さんがよく口にしていたケージの言葉「音をドライヴするのはよくない」という意味。それは、自分が聴こえた音に素直にじっと耳を傾けるということ。西洋という演繹的学術大系の中で確立していった和声法や対位法という音楽理論をトップダウンで演繹して音を決めていくのではなく、まずは、自分がいま書こうとしている音楽の響きにじっと耳を澄ますということ。作曲とはその「聴く」ということ以外のなにものでもない。まずは聴こえなければ何も始まらないのである。
武満さんがケージを尊敬していた意味が、そして武満さんのいう「聴く」という意味が、そのとき、あたかも深い霧が突然晴れ渡るように、急に理解できたような気がした。
江村哲二
私のブログで発表済みの記事の中で,私がそれに気づくことになった経緯を記載したエントリーがありますので,それをここにも再掲致します。
http://tetsujiemura.blogzine.jp/emutet/2005/08/post_d8f3.html
「聴くということ」
武満徹さんというひとは、「作曲」ということを「聴く」ということに昇華してしまったひとである。しかし、その武満さんの先達には、実はジョン・ケージがいる。武満さんはケージを尊敬していた。
しかし、私にはそれがなかなかわからなかった。ケージがわからなかったからである。偶然性を取り入れた彼の作曲がどうしても理解できなかったのだ。しかし、ケージの作品はとても美しい。並々ならぬ魅力に溢れている。どうしたものか。
ところが、ある日、その疑問が一気に払拭されることがあった。笙の宮田まゆみさんと話していたときのことだ。話はジョン・ケージが宮田さんのために書いた作品《One-9》に及んだ。これはケージが宮田さんの立ち会いのもと、共同作業として生まれた作品である。
巨大な扇風機がわんわんと鳴り響く騒々しい倉庫のようなニューヨークの一室で、例によって八卦を持ってケージは作曲を始めたらしい。八卦を振ってそれによって音を決めていく。それを宮田さんがすぐ音にしていったそうだ。それだけ聞くとやっぱりインチキくさいと思った。
しかし、驚いたのはこれからだ。
「で、八卦を振って音にしてみたら(ケージ自身が)この音は気に入らないということはないのですか?」
「いえ。もちろんあります。その音は使わないだけです」。
「は?」
「八卦を振っても、自分が気に入った音しか使いません」。
なんだ。そんなことだったのか。ここで一気に疑問が氷解した。ケージは何も別に八卦や骰子を使った音楽を作曲しているのではない。ケージは、音を決めるために八卦や骰子を振っていたわけではない。これは単にポーズにすぎない。
つまりケージが、八卦を振るとき、骰子を振るとき、そのときにはすでに彼の頭の中ではこれから自分が書こうとしている音楽がすでに鳴り響いているのだ。ケージは自分の頭の中に鳴り響く音楽を、ただそれを楽譜に書き移していたにすぎない。ほとんどモーツァルトと同じである。別に八卦や骰子をころがして音なんか決めていないのだ。
この話は目から鱗であった。武満さんがよく口にしていたケージの言葉「音をドライヴするのはよくない」という意味。それは、自分が聴こえた音に素直にじっと耳を傾けるということ。西洋という演繹的学術大系の中で確立していった和声法や対位法という音楽理論をトップダウンで演繹して音を決めていくのではなく、まずは、自分がいま書こうとしている音楽の響きにじっと耳を澄ますということ。作曲とはその「聴く」ということ以外のなにものでもない。まずは聴こえなければ何も始まらないのである。
武満さんがケージを尊敬していた意味が、そして武満さんのいう「聴く」という意味が、そのとき、あたかも深い霧が突然晴れ渡るように、急に理解できたような気がした。
江村哲二
2006/12/19
対談:茂木健一郎×江村哲二
写真:伊藤笑子
対談:茂木健一郎×江村哲二
日時:2006年12月18日(月)10:00-15:00
於 :東京芸術大学図書館
上野公園
精養軒
立会:佐々木亮(サントリー音楽財団)
:伊藤笑子(筑摩書房)
対談は全て記録しましたが,現段階においては非公開とさせて頂きます。
ご了承下さい。江村哲二
2006/12/08
「内なる音に耳を傾ける」
江村哲二・講演 「内なる音に耳を傾ける」
2006年12月4日
東京芸術大学 美術学部 中央棟 第3講義室
・江村哲二・講演
・茂木健一郎氏との対話
・質疑応答
音声ファイル
(MP3, 73.8MB, 81分)
茂木さんのブログよりリンク。
2006年12月4日
東京芸術大学 美術学部 中央棟 第3講義室
・江村哲二・講演
・茂木健一郎氏との対話
・質疑応答
音声ファイル
(MP3, 73.8MB, 81分)
茂木さんのブログよりリンク。