2006/08/01

音楽の分水嶺

茂木さま,

言語表現とよく比較され論じられることの多い音楽表現ですが,音を言葉のように「意味」に着地して聴くか、あるいは「音楽」として聴くか,ということは大変な分水嶺である,というご指摘に同意です。

モーツァルトは母への手紙の中で,僕は言葉はうまく扱えないし,身振り手振りもうまく出来ない。でも,僕は音ならそれができるのです,といったようなことを書いています。

詩歌や小説のような言語表現,バレエやダンスのような身体表現,そして音楽表現と,各々の表現者によってそれぞれのメディアは異なっているものの,根幹にある最も重要なことは,そのようなメディア以前に,表現したいことがまず在る,ということだと思います。

ちょっと逆説的な表現になりますが,私の場合も,音を扱うことがたまたま得意であったから音楽家をやっているに過ぎないとも言えます。もし,語ることが得意だったら,躯を動かすことが得意であったら,絵を描くことが得意であったら,それぞれまた違ったメディアを扱ってそれを表現していたかもしれません。

しかしながら,これは特に言語や絵画と比較してのことなのですが,音楽という表現は,そもそもがきわめて抽象的な表現であるように思います。

決まって夜明け前の早朝に起きて仕事をする私は(この文もいまそのような時間に書いていますが)例えば,この清々しい早朝を表現したとき,文学や絵画では,恐らく多くのひとが,それをそのように感じ取ってくれると思いますが,ところが音楽の場合は,いくら早朝の清々しさを音にしても,それをそうとは聴いてくれない可能性は非常に高い。

これは音楽表現の持つ特異性だと思うのです。「聴く」ということは創造的行為であると思っています。音楽は聞く hear のではなく聴く listen のですね。鳴り響く音と対峙し,どのようにそれを聴くのか,といった積極的な過程において,聴取者の各々の脳内に,各々の音楽が鳴り響くのであろうと考えています。少なくともクラシック音楽のような音楽では,BGMのように聞いていては何も聞こえてきませんし,聴かなければ創造され得ないコトだと思っています。

そこで,その「聴く」というコトによって自分の脳内に創造された音楽は,あたかも言葉のように「意味」解釈され得るものなのか,それとも,音楽という音響現象の,音のテクスチュア(texture)として聴いているのか,といった大きな違いがあります。

ご指摘のように,まさしくそこは音楽を語る上で大変な「分水嶺」であると思っております。最初から音楽の本質に迫るテーマを与えて下さったと感謝しております。このあたりでまずはお返し致します。

江村哲二

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