2007/05/28
無事終了しました。
トランスミュージック2007、5月26日、無事終了しました。ご来場賜りました皆様方、本当にありがとうございました。
多くのすばらしい演奏家の皆様方とすばらしいスタッフの皆様方に恵まれ、作曲家として想い描いていた音は、ほぼほとんどすべてが具現化できたものと思っております。
第1部のトークでも申し上げましたが、ミューズの息吹によってこの世に誕生した楽曲は、再演によって成長して参ります。今回は聴くことができなかった方々のためにも、できるだけ早く再演の機会を見つけることが次への課題と思っております。
たくさんの嬉しいメールも続々と頂いております。それも併せましてまずはこの度のご来場の御礼を申し上げます。
このブログは7月26日に投稿を開始してちょうど10ヶ月が経ちました。それほど多い投稿数ではありませんでしたが、私だけでなく茂木健一郎さんも、ご自身のブログに書かれた本コンサートに関する記事と合わせますと、かなりの量になっているものと思われます。
コンサートに来られた方、そしてそうではない方も、新作誕生の経緯を知りたくなる方もいらっしゃるかもしれません。このブログに書かれた内容はオープンなものとして、コンサートを終えた今後もこのままにしておこうと思っております。
江村哲二
多くのすばらしい演奏家の皆様方とすばらしいスタッフの皆様方に恵まれ、作曲家として想い描いていた音は、ほぼほとんどすべてが具現化できたものと思っております。
第1部のトークでも申し上げましたが、ミューズの息吹によってこの世に誕生した楽曲は、再演によって成長して参ります。今回は聴くことができなかった方々のためにも、できるだけ早く再演の機会を見つけることが次への課題と思っております。
たくさんの嬉しいメールも続々と頂いております。それも併せましてまずはこの度のご来場の御礼を申し上げます。
このブログは7月26日に投稿を開始してちょうど10ヶ月が経ちました。それほど多い投稿数ではありませんでしたが、私だけでなく茂木健一郎さんも、ご自身のブログに書かれた本コンサートに関する記事と合わせますと、かなりの量になっているものと思われます。
コンサートに来られた方、そしてそうではない方も、新作誕生の経緯を知りたくなる方もいらっしゃるかもしれません。このブログに書かれた内容はオープンなものとして、コンサートを終えた今後もこのままにしておこうと思っております。
江村哲二
2007/05/24
リハーサル初日(5月23日)
2007/05/21
プログラム・ノート
来る5月26日のトランスミュージック2007のプログラム・ノートを、
江村哲二のサイト、
http://tetsujiemura.com/
の "A New Work" の項にUPしました。
私が書いたもの、茂木さんに書いて頂いたもの、そして企画の側から、
音楽学者の伊東信宏さんによるもの、都合3つがあります。
もうチケットを入手したよという方、
残念ながら行くことができないという方、
どうしようかなとまだ迷っていらっしゃる方、
特に、茂木さん、伊東さんのノートを、
ぜひ一度お目をお通し下さい。
江村哲二のサイト、
http://tetsujiemura.com/
の "A New Work" の項にUPしました。
私が書いたもの、茂木さんに書いて頂いたもの、そして企画の側から、
音楽学者の伊東信宏さんによるもの、都合3つがあります。
もうチケットを入手したよという方、
残念ながら行くことができないという方、
どうしようかなとまだ迷っていらっしゃる方、
特に、茂木さん、伊東さんのノートを、
ぜひ一度お目をお通し下さい。
2007/05/19
いよいよです!
transmusic2007を来週末に控え、拙作《ハープ協奏曲》の独奏パートの練習立ち会いに、ハーピスト篠﨑和子さんのお宅へ。
篠﨑和子さんは日本を代表するハーピスト篠﨑史子さんのお嬢様。ご自宅にお伺いするのは実は初めて。
私はハープという楽器をこよなく愛している。母子でハーピストというご家庭のお家に行くというだけでワクワク。
誠に失礼ながらお部屋に案内されてからも、しばしその華麗な雰囲気に酔い、そしてきょろきょろとしてしまう。お母様は宮崎に行かれていてお留守。
このハープ協奏曲、しらかわホールの委嘱で1997年に作曲され、同年に初演された作品。
初演の独奏は篠﨑史子さんと並んでもうひとり日本を代表するハーピストの木村茉莉さん。
ハープという楽器の可能性を追求すべく木村茉莉さんへの挑戦状として書かれた、全曲に渡ってハープの超絶技巧に彩られた作品である。
オーケストラは2管から成る小さめの編成であるから、今回のコンサートのオーケストラ、大阪センチュリー交響楽団にもジャスト・フィット。
もちろん練習立ち会いは何事もなく終了。その超絶技巧のソロ・パートを、全てさらりと弾きこなして下さっていた。師でもあるお母様は当日ゲネプロにも来て下さるとのこと。
場所を新宿に移し、指揮の齊藤一郎さん、英詩朗読の茂木健一郎さんと新作《可能無限への頌詩》の打ち合わせ。
モノドラマのような作品に仕上がったこの新曲。世界初演ということもあり、事前にネタバレとなってしまってはつまらないので、多くは書かないでおこう。
とにかく茂木さんが大活躍。ゲストとして招いたというより、この作品においては茂木さんが主人公である。おかげさまでチケットの売れ行きも順調。乞うご期待!
篠﨑和子さんは日本を代表するハーピスト篠﨑史子さんのお嬢様。ご自宅にお伺いするのは実は初めて。
私はハープという楽器をこよなく愛している。母子でハーピストというご家庭のお家に行くというだけでワクワク。
誠に失礼ながらお部屋に案内されてからも、しばしその華麗な雰囲気に酔い、そしてきょろきょろとしてしまう。お母様は宮崎に行かれていてお留守。
このハープ協奏曲、しらかわホールの委嘱で1997年に作曲され、同年に初演された作品。
初演の独奏は篠﨑史子さんと並んでもうひとり日本を代表するハーピストの木村茉莉さん。
ハープという楽器の可能性を追求すべく木村茉莉さんへの挑戦状として書かれた、全曲に渡ってハープの超絶技巧に彩られた作品である。
オーケストラは2管から成る小さめの編成であるから、今回のコンサートのオーケストラ、大阪センチュリー交響楽団にもジャスト・フィット。
もちろん練習立ち会いは何事もなく終了。その超絶技巧のソロ・パートを、全てさらりと弾きこなして下さっていた。師でもあるお母様は当日ゲネプロにも来て下さるとのこと。
場所を新宿に移し、指揮の齊藤一郎さん、英詩朗読の茂木健一郎さんと新作《可能無限への頌詩》の打ち合わせ。
モノドラマのような作品に仕上がったこの新曲。世界初演ということもあり、事前にネタバレとなってしまってはつまらないので、多くは書かないでおこう。
とにかく茂木さんが大活躍。ゲストとして招いたというより、この作品においては茂木さんが主人公である。おかげさまでチケットの売れ行きも順調。乞うご期待!
2007/05/08
音楽を「考える」
2007/04/21
ラヴレター
書斎でうとうととしていたら携帯電話が鳴った。
茂木健一郎さんからである。
サントリー音楽財団の佐々木さんが出来上がったばかりの新作スコアを届けに行ってくれたらしい。
朝カルが終って新宿で飲んでいるとのこと。背景から沢山の賑やかな声が聴こえる。
その中からいつもよりさらに弾んだ茂木さんの声がうとうととしていた私の目を覚ます。
新作のスコアを手にしてすごく喜んでいる様子だ。
嬉しい。
新作のスコアとは、産みの苦しみの果てに産み落とした我が子のようでもあり、特にコンチェルトの場合、さらに今回のようなコラボレーションによる作品の場合は、いわばそのひとに対するラヴレターみたいなものでもあるのだ。
そしてそれを受け取った方から喜びの電話を頂いたようなもの。言葉には語り尽くせないものがある。
今回、茂木さんの持つ肉声の質感に拘って、そして茂木さんという人柄にも拘って、そのスコアは茂木さんの語りが特にフィーチャーされるように書いてある。
しかも、出ずっぱりではない。神出鬼没である。舞台、照明、音響、等々スタッフの皆さんとの打ち合わせでは「どこでもドアだね」と言われた。
そして、この新作に関して、実は皆様にもうひとつ報告することがある。
この新曲、茂木さんの語りの他に、独奏ヴァイオリンが入るのである。そのヴァイオリニストはホール向かって右上奥のバルコニーに居て、そこから重要かつ短いフレーズを数種数回弾くのである。
以前にも少し書いたが、うまくコンポジションできるか、そして独奏者をどうするか、といろいろ考えなければならないことがあったが、作曲上の問題もうまく解決して、そして何よりも、この独奏ヴァイオリンには、このコンサートで武満作品を弾くためにお願いした大谷玲子さんが引き受けて下さることになったのだ!
演奏者にも、スタッフの皆さんにも恵まれている。みなさま乞うご期待!
茂木健一郎さんからである。
サントリー音楽財団の佐々木さんが出来上がったばかりの新作スコアを届けに行ってくれたらしい。
朝カルが終って新宿で飲んでいるとのこと。背景から沢山の賑やかな声が聴こえる。
その中からいつもよりさらに弾んだ茂木さんの声がうとうととしていた私の目を覚ます。
新作のスコアを手にしてすごく喜んでいる様子だ。
嬉しい。
新作のスコアとは、産みの苦しみの果てに産み落とした我が子のようでもあり、特にコンチェルトの場合、さらに今回のようなコラボレーションによる作品の場合は、いわばそのひとに対するラヴレターみたいなものでもあるのだ。
そしてそれを受け取った方から喜びの電話を頂いたようなもの。言葉には語り尽くせないものがある。
今回、茂木さんの持つ肉声の質感に拘って、そして茂木さんという人柄にも拘って、そのスコアは茂木さんの語りが特にフィーチャーされるように書いてある。
しかも、出ずっぱりではない。神出鬼没である。舞台、照明、音響、等々スタッフの皆さんとの打ち合わせでは「どこでもドアだね」と言われた。
そして、この新作に関して、実は皆様にもうひとつ報告することがある。
この新曲、茂木さんの語りの他に、独奏ヴァイオリンが入るのである。そのヴァイオリニストはホール向かって右上奥のバルコニーに居て、そこから重要かつ短いフレーズを数種数回弾くのである。
以前にも少し書いたが、うまくコンポジションできるか、そして独奏者をどうするか、といろいろ考えなければならないことがあったが、作曲上の問題もうまく解決して、そして何よりも、この独奏ヴァイオリンには、このコンサートで武満作品を弾くためにお願いした大谷玲子さんが引き受けて下さることになったのだ!
演奏者にも、スタッフの皆さんにも恵まれている。みなさま乞うご期待!
2007/03/23
新聞記事
2007/03/21
《音楽を「考える」》ちくまプリマー新書
皆様、
5月26日の「トランスミュージック2007」の公演に先立つことの5月初旬には、ちくまプリマー新書から《音楽を「考える」》というタイトルの茂木健一郎・江村哲二の共著が発刊されます。この公演ならびにこの新作のために行われた茂木と江村の数回に渡る対談から起こしたものです。二人の出会いから、音楽、芸術、科学、文化、日本、世界、生命哲学にまで至る、二人の熱い対話がぎっしりと詰まっております。
乞うご期待!
http://www.e-hon.ne.jp/
http://books.yahoo.co.jp/
5月26日の「トランスミュージック2007」の公演に先立つことの5月初旬には、ちくまプリマー新書から《音楽を「考える」》というタイトルの茂木健一郎・江村哲二の共著が発刊されます。この公演ならびにこの新作のために行われた茂木と江村の数回に渡る対談から起こしたものです。二人の出会いから、音楽、芸術、科学、文化、日本、世界、生命哲学にまで至る、二人の熱い対話がぎっしりと詰まっております。
乞うご期待!
http://www.e-hon.ne.jp/
http://books.yahoo.co.jp/
2007/03/11
動線の確認
記者会見に先立って,現場のいずみホールにて,茂木さんの動線の確認を行う。
茂木さんに書いて頂いた英詩を,茂木さん自身の朗読によって進行するこの新作。茂木さんはステージ上に居るだけでなく,ホール内を神出鬼没に移動し,そこで詩の朗読を行う。
朗読とオーケストラのためのこの作品は,伝統的な協奏曲(Concerto)の形態ではあるが,それは協奏,競奏ではなく「共創」Co-creationという概念を導入しようと思っている。それは武満さんの《ノヴェンバー・ステップス》という名作にそのヒントを頂いている。
つまり両者は協奏するわけでもなく競奏するわけでもなく並列して存在しているのだ。頂いた英詩を複数に分割し,管弦楽の中に楔(wedge)のようにそれが切り込んでいく。それも生々しい作家自身の肉声によってだ。
茂木さんがステージの背後を移動している間はオーケストラが演奏しているわけであるが,ストップウォッチを持って,構想した移動経路を実際に歩いてみる。
息切れしない程度にかつその位置に着いて心のゆとりを持つことができるように,かつ指揮者からのキューを上手く捉える事ができるように,加えて,暗い中で朗読のための照明はどうするか,ピンスポットを使うのか,ステマネとどのように連携させるか,なんて考えなければならないことがたくさんあって,どんどんワクワク楽しくなっていく自分に気が付く。このところずっと部屋に籠って五線紙と対峙していたから,やっぱり現場に来るととても嬉しいのだ。
一通り済ませて記者会見会場のホテルへ向かう。指揮の齋藤一郎さんも到着。筑摩書房の伊藤笑子さんも来て下さる。新幹線の時刻を聞いていなかった茂木さんを心配するが,開始予定時刻前にはきちんと到着。
多くの新聞記者さんの前で,茂木さんとの出会いや今回のコラボレーションについて詳しくお話する。茂木さんも私の作品のことや私自身のことそして創造ということ対する「気合い」についてお話して下さった。質疑も多くあって,フォトセッションをやって,とてもいい雰囲気で無事終了。
茂木さんに書いて頂いた英詩を,茂木さん自身の朗読によって進行するこの新作。茂木さんはステージ上に居るだけでなく,ホール内を神出鬼没に移動し,そこで詩の朗読を行う。
朗読とオーケストラのためのこの作品は,伝統的な協奏曲(Concerto)の形態ではあるが,それは協奏,競奏ではなく「共創」Co-creationという概念を導入しようと思っている。それは武満さんの《ノヴェンバー・ステップス》という名作にそのヒントを頂いている。
つまり両者は協奏するわけでもなく競奏するわけでもなく並列して存在しているのだ。頂いた英詩を複数に分割し,管弦楽の中に楔(wedge)のようにそれが切り込んでいく。それも生々しい作家自身の肉声によってだ。
茂木さんがステージの背後を移動している間はオーケストラが演奏しているわけであるが,ストップウォッチを持って,構想した移動経路を実際に歩いてみる。
息切れしない程度にかつその位置に着いて心のゆとりを持つことができるように,かつ指揮者からのキューを上手く捉える事ができるように,加えて,暗い中で朗読のための照明はどうするか,ピンスポットを使うのか,ステマネとどのように連携させるか,なんて考えなければならないことがたくさんあって,どんどんワクワク楽しくなっていく自分に気が付く。このところずっと部屋に籠って五線紙と対峙していたから,やっぱり現場に来るととても嬉しいのだ。
一通り済ませて記者会見会場のホテルへ向かう。指揮の齋藤一郎さんも到着。筑摩書房の伊藤笑子さんも来て下さる。新幹線の時刻を聞いていなかった茂木さんを心配するが,開始予定時刻前にはきちんと到着。
多くの新聞記者さんの前で,茂木さんとの出会いや今回のコラボレーションについて詳しくお話する。茂木さんも私の作品のことや私自身のことそして創造ということ対する「気合い」についてお話して下さった。質疑も多くあって,フォトセッションをやって,とてもいい雰囲気で無事終了。
2007/03/10
記者会見:トランスミュージック2007
2007年3月9日13時より,ホテル阪急インターナショナル5階「南天の間」におきまして,サントリー音楽財団およびサントリー株式会社大阪広報部の主催にて,「トランスミュージック 対話する作曲家 江村哲二 〜脳科学者 茂木健一郎を迎えて」の記者会見が行われました。
サントリー・ニュースリリース
http://www.suntory.co.jp/news/2007/9732.html
- - -
日時:2007年5月26日(土)開演15時
会場:いずみホール(大阪)
曲目:第1部 江村哲二と茂木健一郎によるトーク
第2部 コンサート
武満 徹:ノスタルジア 〜アンドレイ・タルコフスキーの追憶に〜 (1987)
江村哲二:ハープ協奏曲 (1997)
江村哲二:可能無限への頌詩,語りとオーケストラのための
〜茂木健一郎の英詩による〜 (2007) 新作初演
出演:齋藤一郎(指揮)
篠崎和子(ハープ)
大谷玲子(ヴァイオリン)
茂木健一郎(朗読)
大阪センチュリー交響楽団
主催:サントリー音楽財団
協賛:サントリー株式会社
- - -
サントリー・ニュースリリース
http://www.suntory.co.jp/news/2007/9732.html
- - -
日時:2007年5月26日(土)開演15時
会場:いずみホール(大阪)
曲目:第1部 江村哲二と茂木健一郎によるトーク
第2部 コンサート
武満 徹:ノスタルジア 〜アンドレイ・タルコフスキーの追憶に〜 (1987)
江村哲二:ハープ協奏曲 (1997)
江村哲二:可能無限への頌詩,語りとオーケストラのための
〜茂木健一郎の英詩による〜 (2007) 新作初演
出演:齋藤一郎(指揮)
篠崎和子(ハープ)
大谷玲子(ヴァイオリン)
茂木健一郎(朗読)
大阪センチュリー交響楽団
主催:サントリー音楽財団
協賛:サントリー株式会社
- - -
2007/02/15
作曲家の視線
たとえば猫の視線,つまりそのような低い視線からは世界がどのように見えるか,なんて試みがあって,もちろん猫に限りません,小さな子どもにカメラを渡して写真を撮ってもらうと,とても面白いアングルを発見することがあります。
今回はちょっといたずらして「作曲家の視線」というものを撮ってみました。作曲中の様子という写真は数多いですが,作曲者自身の視点から撮った写真は以外に少ないように思います。
これが私の世界です。こうやって見ますと,非常に狭い空間の中で仕事していることが分ります。狭いですがこの世界が私の宇宙であります。この世界から脳内にイマジネーションが飛翔しているのです。我々ヒトの想像力というものは実世界の時空間を超越しているように思われます。
しかし,それらもすべて(茂木さんの言葉を借りれば)たかが容積1リットルの脳内で起きている現象にすぎません。網状に結合した1千億個の神経細胞から,なぜそのような「仮想としての響き」が生まれて来るのか,本当に不思議です。
2007/02/05
新曲のタイトルが決まりました。
写真:大学の研究室にて(江村哲二撮影)
昨夜,茂木さんとメールで相談して,新曲のタイトルが決まりました。
"An Ode to the Potentially Infinite" for Narrator and Orchestra (2007)
《可能無限への頌詩》語りとオーケストラのための (2007)
5月26日のコンサート詳細もほぼ決まりつつありますが,その告示は主催者側からのチラシが出来てからにしようと思います。チラシはただいま準備中です。
昨日は日曜日のひっそりとした大学の研究室に籠って,真っ白なその第1頁をずっと眺めていました。きっと,これで第1頁は突破することができると思います(汗;
2007/02/03
書き始めました
茂木さま,
ついに書き始めました。これからは脳内に鳴り響く「仮想としての響き」を五線紙上に固定する作業です。書き始めということもあって,ちょっと気分を換えるために,書斎を離れて,某所某ホテルにひとり籠って書いています。
住み慣れた書斎では(自分のブログにも書きましたが)身の回りのもの,文具や家具やその他もろもろの全てのものが,自分と同じように息をしているのを感じて,その書くという作業においては,敢えてそれが邪魔になったりもするのです。
このようにホテルの一室に籠っていますと,自分がひとりぽつんと孤立したような感覚に浸りますので,脳内に鳴り響く「仮想としての響き」を五線紙上に書き写すという作業には,かえって好都合だったりもするのです。
本番が5月26日,パート譜等のマテリアルの準備(出版社は全音楽譜が受けてくれました)を考えて,それに少し保険を見て,スコアの仕上がりを3月末日と決めました。
いまからちょうど2ヶ月。オケを書くにはやや厳しい日程となってしまいましたが,頭の中には曲はほぼ出来上がっていますから,あとはがむしゃらにひたすら書きまくるだけ。これからは肉体的な資源(リソース)を消費する期間が続きます。ちょっと体育会系のノリですね。
お恥ずかしいはなしですが,40半ばを過ぎて,このところ急に年齢を感じるようになってきました。芸術的な仕事をしていても,最終的には,ここぞ一発というときの体力が勝負を決めるように思います。志が強くてもそれを支えるだけの体力がなければそれを具現化できません。茂木さんのように朝起きてすぐスクワットから始めようかと思います。
2007/01/27
新曲のレイアウト
茂木さんの朗読をどう移動させるかということをずっと考え続けています。
楽器のレイアウトは,先日も書きましたように,空間的に楽器を配置することは既にかなり使い尽くされていますし,再演のことも考えてあまり特殊なことはしないようにしています。
でも,茂木さんの詩を読んでいて,ひとつだけひらめきまして,オーケストラの遠くかつ高いところにヴァイオリンをひとつ置くことにしました。
初演予定のいずみホールの写真を先日アップしましたが,正面向かってオルガンの右,ちょっと突き出したバルコニーがあるのです。ここに独りヴァイオリニストに居てもらおうかなと。
将来,いずみホールではなく,サントリーホールみたいなワインヤード型のホールであればオーケストラの背後の席の上,シューボックス型のホールであればバルコニー席,かつ出来るだけ高いところです。
そしてこの曲はそのヴァイオリン・ソロから始まるのです。いま書きつつあるのですが(楽譜としてはまだ書いていません。まず頭の中に全曲を一旦書いてしまって,それから五線紙に向かってそれを推敲しつつ一気に筆を走らせます)モノドラマのような進行になりそうです。
この独奏ヴァイオリニストは,曲の途中にときどき出て来ては,ぽつ,ぽつと短いフレーズを弾きます。演劇の舞台回しのような役目です。時空を超越した神のような,あるいは運命みたいな。
でもそれは我々の日常の生活の中において,自分の意識下では決してドミナントではない,居るのか居ないのかわからないような。でも,我々の可能無限の中でひっそり息をしている無意識的存在です。
それからいつもそうなのですが,ある曲を書き進めていると,次の作品のアイディアもいっしょに浮かんでくるのです。
あ,そうだ,次の作品はこうしようとか,うー,オペラが書きたいーっとかね。将来構想のアイディアも同時に悶々。そう,茂木さん,オペラをいずれいっしょにやりましょうよ,なんて,まだ当てのない夢が脳内を駆け巡ります。
いやいや,まずはこれを楽譜にしなくちゃ。私の脳内にある「仮想としての響き」だけじゃ仕事になりません。では〜♪
江村哲二
2007/01/21
新曲の音高システム
茂木さま,
昨夜からずっと今回の作品に用いる音高システムを考えていました。
私のブログにも今朝書きましたが,茂木さんの詩を読んで,今回は出来るだけ「機械」というものから遠ざかってみようと想うに至り,
また,先日の対談の中で,ジョン・ケージの作品《One-9》を言及したこともあって,そして何よりも茂木さんが書いて下さった「可能無限」というその宇宙観を表すために,プリミティヴな楽器である,雅楽器の「笙」のシステムを使ってみようと思い立ちました。
15本の竹からなる(実際は17本ですが,そのうちの2本は鳴りません)笙は,同時に複数の音が出せる管楽器として,世界的にも珍しい(他にはバグパイプぐらい)楽器です。
そのため,それら複数の音による差音と結合音からなる高次倍音が同時に響くため,あのような天空的(celestial)な響きを持っています。
実際の笙の音律による差音と結合音とによるその高次倍音については,笙奏者の宮田まゆみさん自身によって計算され発表(日本記号学会誌・記号学研究Vol.18)もされていまして,それは昨年1月に発表した《地平線のクオリア》にも一部使ったのですが,
その後,(ここからは少し楽理的な記述になってしまいますが)昨年の9月頃に,基音が長二度と完全五度のペアを2種選んで(LaとSi,RéとMi,笙の音名ではそれぞれ,「乞」と「一」,「几」と「乙」といいます)
それらの結合音の高次倍音列からハーモニック・ピッチを作ってオーケストレーションすると,面白いことができそうなことが解って,
そしてそこにそれらとは全く無縁の高次ハーモニックス項を持つ,Sol#(笙の音名では「美」といいます。いいでしょう!)を入れて山椒の小粒のようなテンションを与えます。
さらに,茂木さんの詩には,その天空的な「可能無限」のイメージの中に,我々の日常的な(いい言葉が浮かびません)地上性(terrestrial)も感じるのですね。
我々の「生」(la vie)における,これもひとつの(茂木さんが絶えず仰っている)偶有性(contingency)ではないかと思うのです。ひとつ前の投稿で時空の飛翔を感じると言ったのはそういうことです。
そしてその意図のために,先ほどの長二度と完全五度のペアのそれぞれの音程を反転(inverse)させたもう一組のペアを重ねています。
これは一種の複調(複数の調が同時進行する)ですが,基本に透明感のある五度の響きがあるために,かなり調性を感じさせる曲になると思います。
このブログを読んで下さっている読者のために,私の仕事部屋の雰囲気もお伝えしようと,自宅の写真を少々添えてみました。江村哲二
2007/01/17
詩の朗読について
茂木さま,
昨年の大晦日に頂いた詩 "An Ode to the Potentially Infinite" を読みながら,いまスコアを書きつつあります。
茂木さんの詩の朗読は,オーケストラの中に入って,語って頂くつもりでいたのですが,詩を読みながらいろいろと考えていて,ちょっとだけ演出をしてみようとひらめきました。
昨年,初演場所のいずみホールをじっくり見させて頂いたのですが,ウィーン楽友協会を思わせるこの美しいホールは,ステージ以外にもいろいろ工夫があります。
茂木さんに書いて頂いたこの詩,私には時空の飛翔を強く感じるのですね。そこを時間(つまり音)だけでなく空間的にも表現できないかなって考えています。
それで,茂木さんには,演奏中に神出鬼没に移動してもらおうかなっと。Wandering Mogi!
楽器をいろんな場所に配置するアイディアはもうかなり使い尽くされているのですが,ひとりのナレーターが移動するというのは,ほとんどないのじゃないかと思います。歌曲ならありますが。
でも,考えなくてはならないことがたくさんあって,うまくコンポジションできるかまだ分かりませんが,このブログ,創作過程を公開するという意味がありますので,結局は実現しないかもしれませんが,私の思考の過程としてアップしました。江村哲二
写真:いずみホール(ホールの許可を得て2006年5月22日に江村が撮影)
2006/12/31
An Ode to the Potentially Infinite.
An Ode to the Potentially Infinite.
Ken Mogi
written for the music of Tetsuji Emura
31st December 2006
Humans by their nature are cognitively closed,
as consciousness can get to know only itself.
Intimacy is privileged, exclusive, and selective.
By loving, we close our eyes to the passers by.
Everything is seen through a foggy mapping
of shadows cast on one's inner cosmos.
Qualia mirror the essence of things just so,
reflecting one's own prejudices and dreams.
Yet we mortal souls are not entirely alone,
life's poignant collision kick-starting our lives.
Mother caring for baby, father doing the nightshift,
raindrops of fortune occasionally falling from the sky.
Meeting people, learning how to care,
we extend our horizon, however slowly.
In the twilight we learn to aspire far away,
knowing that the star is never reachable.
Ruby at dawn, emerald in high noon.
As long as there's a "next", life showers us with gems and things.
We breathe in that sweet air of potential infinities,
the material of all that is bright in life.
As mortal beings, we do not know the end,
terminality unforeseen converted to fragile blessings.
Spring is eternal, as we drink from the cup
oblivious of the fest's final moment.
So here's an ode to the potentially infinite,
a ray of sunbeam in our humble existence.
Freedom, hope, beauty and love
all good things come from that well.
And finally, through the mind's fog
we faintly hear the footsteps
of those who remained in silence all our lives,
the long forgotten passers by.
Ken Mogi
written for the music of Tetsuji Emura
31st December 2006
Humans by their nature are cognitively closed,
as consciousness can get to know only itself.
Intimacy is privileged, exclusive, and selective.
By loving, we close our eyes to the passers by.
Everything is seen through a foggy mapping
of shadows cast on one's inner cosmos.
Qualia mirror the essence of things just so,
reflecting one's own prejudices and dreams.
Yet we mortal souls are not entirely alone,
life's poignant collision kick-starting our lives.
Mother caring for baby, father doing the nightshift,
raindrops of fortune occasionally falling from the sky.
Meeting people, learning how to care,
we extend our horizon, however slowly.
In the twilight we learn to aspire far away,
knowing that the star is never reachable.
Ruby at dawn, emerald in high noon.
As long as there's a "next", life showers us with gems and things.
We breathe in that sweet air of potential infinities,
the material of all that is bright in life.
As mortal beings, we do not know the end,
terminality unforeseen converted to fragile blessings.
Spring is eternal, as we drink from the cup
oblivious of the fest's final moment.
So here's an ode to the potentially infinite,
a ray of sunbeam in our humble existence.
Freedom, hope, beauty and love
all good things come from that well.
And finally, through the mind's fog
we faintly hear the footsteps
of those who remained in silence all our lives,
the long forgotten passers by.
2006/12/20
聴くということ
このコラボレーションにおいて,茂木さんとの対談の中でも話題になりました「聴くということ」。
私のブログで発表済みの記事の中で,私がそれに気づくことになった経緯を記載したエントリーがありますので,それをここにも再掲致します。
http://tetsujiemura.blogzine.jp/emutet/2005/08/post_d8f3.html
「聴くということ」
武満徹さんというひとは、「作曲」ということを「聴く」ということに昇華してしまったひとである。しかし、その武満さんの先達には、実はジョン・ケージがいる。武満さんはケージを尊敬していた。
しかし、私にはそれがなかなかわからなかった。ケージがわからなかったからである。偶然性を取り入れた彼の作曲がどうしても理解できなかったのだ。しかし、ケージの作品はとても美しい。並々ならぬ魅力に溢れている。どうしたものか。
ところが、ある日、その疑問が一気に払拭されることがあった。笙の宮田まゆみさんと話していたときのことだ。話はジョン・ケージが宮田さんのために書いた作品《One-9》に及んだ。これはケージが宮田さんの立ち会いのもと、共同作業として生まれた作品である。
巨大な扇風機がわんわんと鳴り響く騒々しい倉庫のようなニューヨークの一室で、例によって八卦を持ってケージは作曲を始めたらしい。八卦を振ってそれによって音を決めていく。それを宮田さんがすぐ音にしていったそうだ。それだけ聞くとやっぱりインチキくさいと思った。
しかし、驚いたのはこれからだ。
「で、八卦を振って音にしてみたら(ケージ自身が)この音は気に入らないということはないのですか?」
「いえ。もちろんあります。その音は使わないだけです」。
「は?」
「八卦を振っても、自分が気に入った音しか使いません」。
なんだ。そんなことだったのか。ここで一気に疑問が氷解した。ケージは何も別に八卦や骰子を使った音楽を作曲しているのではない。ケージは、音を決めるために八卦や骰子を振っていたわけではない。これは単にポーズにすぎない。
つまりケージが、八卦を振るとき、骰子を振るとき、そのときにはすでに彼の頭の中ではこれから自分が書こうとしている音楽がすでに鳴り響いているのだ。ケージは自分の頭の中に鳴り響く音楽を、ただそれを楽譜に書き移していたにすぎない。ほとんどモーツァルトと同じである。別に八卦や骰子をころがして音なんか決めていないのだ。
この話は目から鱗であった。武満さんがよく口にしていたケージの言葉「音をドライヴするのはよくない」という意味。それは、自分が聴こえた音に素直にじっと耳を傾けるということ。西洋という演繹的学術大系の中で確立していった和声法や対位法という音楽理論をトップダウンで演繹して音を決めていくのではなく、まずは、自分がいま書こうとしている音楽の響きにじっと耳を澄ますということ。作曲とはその「聴く」ということ以外のなにものでもない。まずは聴こえなければ何も始まらないのである。
武満さんがケージを尊敬していた意味が、そして武満さんのいう「聴く」という意味が、そのとき、あたかも深い霧が突然晴れ渡るように、急に理解できたような気がした。
江村哲二
私のブログで発表済みの記事の中で,私がそれに気づくことになった経緯を記載したエントリーがありますので,それをここにも再掲致します。
http://tetsujiemura.blogzine.jp/emutet/2005/08/post_d8f3.html
「聴くということ」
武満徹さんというひとは、「作曲」ということを「聴く」ということに昇華してしまったひとである。しかし、その武満さんの先達には、実はジョン・ケージがいる。武満さんはケージを尊敬していた。
しかし、私にはそれがなかなかわからなかった。ケージがわからなかったからである。偶然性を取り入れた彼の作曲がどうしても理解できなかったのだ。しかし、ケージの作品はとても美しい。並々ならぬ魅力に溢れている。どうしたものか。
ところが、ある日、その疑問が一気に払拭されることがあった。笙の宮田まゆみさんと話していたときのことだ。話はジョン・ケージが宮田さんのために書いた作品《One-9》に及んだ。これはケージが宮田さんの立ち会いのもと、共同作業として生まれた作品である。
巨大な扇風機がわんわんと鳴り響く騒々しい倉庫のようなニューヨークの一室で、例によって八卦を持ってケージは作曲を始めたらしい。八卦を振ってそれによって音を決めていく。それを宮田さんがすぐ音にしていったそうだ。それだけ聞くとやっぱりインチキくさいと思った。
しかし、驚いたのはこれからだ。
「で、八卦を振って音にしてみたら(ケージ自身が)この音は気に入らないということはないのですか?」
「いえ。もちろんあります。その音は使わないだけです」。
「は?」
「八卦を振っても、自分が気に入った音しか使いません」。
なんだ。そんなことだったのか。ここで一気に疑問が氷解した。ケージは何も別に八卦や骰子を使った音楽を作曲しているのではない。ケージは、音を決めるために八卦や骰子を振っていたわけではない。これは単にポーズにすぎない。
つまりケージが、八卦を振るとき、骰子を振るとき、そのときにはすでに彼の頭の中ではこれから自分が書こうとしている音楽がすでに鳴り響いているのだ。ケージは自分の頭の中に鳴り響く音楽を、ただそれを楽譜に書き移していたにすぎない。ほとんどモーツァルトと同じである。別に八卦や骰子をころがして音なんか決めていないのだ。
この話は目から鱗であった。武満さんがよく口にしていたケージの言葉「音をドライヴするのはよくない」という意味。それは、自分が聴こえた音に素直にじっと耳を傾けるということ。西洋という演繹的学術大系の中で確立していった和声法や対位法という音楽理論をトップダウンで演繹して音を決めていくのではなく、まずは、自分がいま書こうとしている音楽の響きにじっと耳を澄ますということ。作曲とはその「聴く」ということ以外のなにものでもない。まずは聴こえなければ何も始まらないのである。
武満さんがケージを尊敬していた意味が、そして武満さんのいう「聴く」という意味が、そのとき、あたかも深い霧が突然晴れ渡るように、急に理解できたような気がした。
江村哲二
2006/12/19
対談:茂木健一郎×江村哲二
写真:伊藤笑子
対談:茂木健一郎×江村哲二
日時:2006年12月18日(月)10:00-15:00
於 :東京芸術大学図書館
上野公園
精養軒
立会:佐々木亮(サントリー音楽財団)
:伊藤笑子(筑摩書房)
対談は全て記録しましたが,現段階においては非公開とさせて頂きます。
ご了承下さい。江村哲二
2006/12/08
「内なる音に耳を傾ける」
江村哲二・講演 「内なる音に耳を傾ける」
2006年12月4日
東京芸術大学 美術学部 中央棟 第3講義室
・江村哲二・講演
・茂木健一郎氏との対話
・質疑応答
音声ファイル
(MP3, 73.8MB, 81分)
茂木さんのブログよりリンク。
2006年12月4日
東京芸術大学 美術学部 中央棟 第3講義室
・江村哲二・講演
・茂木健一郎氏との対話
・質疑応答
音声ファイル
(MP3, 73.8MB, 81分)
茂木さんのブログよりリンク。
2006/11/18
偶有的音楽体験
茂木さま,
言語学的な「意味論」(semantics) として音楽を聴くのか,音響学的な「質感」(texture) に音楽を接地させるのか,といった問題を考えているうちに,今回は特に音楽作品の持つ視覚的イメージから受けるクオリアに焦点を置いてプログラミングすると面白いのではないかということに気づきました。そしてそのプログラムには拙作だけでなく,強力な助っ人として武満さんの作品をそこに入れることをいま考えています。下記がその案です。奇しくも10年間隔の作品が並びました。
・プログラム(案)曲順未定
武満 徹《ノスタルジア》(1987) 独奏Vnと弦楽Orch
江村哲二《ハープ協奏曲》(1997) 独奏HpとOrch
江村哲二《 新作初演 》(2007)
〜アンドレイ・タルコフスキーの追憶に〜というサブ・タイトルを持つ《ノスタルジア》は,もちろんタルコフスキーの作品 "Nostalghia" に依っています。タルコフスキーの映画の特徴的なイメージである水や霧の感覚質(クオリア)が全曲を支配しています。
そして小生の《ハープ協奏曲》は,雨が上がったばかりの森の中,枝葉からほぼ規則的に落ちる雨だれと,葉の上に溜まった雨がその重みに耐えかねて不規則的(カオティック)にバラバラっと葉先からそのかたまりが落ちる二つの情景が通奏低音として全曲に流れています。
どちらも穏やかで静かな音響的風景が視覚的イメージに喚起されることが特徴です。そしてそれらの上に,今度は茂木さんの言語センスを借りて,また別のもうひとつの音楽体験を創れないかと考えているのです。
音楽から見ると言語というのはとても力強く頼もしいのですね。作曲家は女々しいけど作家は男性的(笑)。音楽に比べて解釈の余裕をあまり与えてくれない。しかし,そこに音を加えることでそれをオブラートに包むことができる。逆に音楽という表現は言語表現に比べればずっと抽象的であるわけです。かなり幅の広い解釈可能な余地をそこに残している。そしてそこに言語を加えることで曖昧模糊としたその原っぱに,あるひとつの誘導路を設けることができます。
そして私がいま考えていることは,時間軸上のその展開が,そのふたつにおいて,contingent(偶有的)な体験として作曲できないかということです。そしてその可能性の切り口のひとつに「朗読」があるのではないかと考えています。歌曲ではなくてです。
サルバトーレ・シャリーノというイタリアの作曲家は,レチタティーヴォとアリアの境界領域とも呼べる作法で極めてユニークなオペラを書いています。
http://www.horie-nobuo.com/ono/review/r06.html
もちろん,私はシャリーノのようなことをやるつもりはありませんが,音楽における言葉の叙述的扱い,そしてそこから受ける視覚的イメージへの喚起というのは,いま作曲家に与えられた非常に大きな可能性を秘めた領域ではないかと思うのです。
言語学的な「意味論」(semantics) として音楽を聴くのか,音響学的な「質感」(texture) に音楽を接地させるのか,といった問題を考えているうちに,今回は特に音楽作品の持つ視覚的イメージから受けるクオリアに焦点を置いてプログラミングすると面白いのではないかということに気づきました。そしてそのプログラムには拙作だけでなく,強力な助っ人として武満さんの作品をそこに入れることをいま考えています。下記がその案です。奇しくも10年間隔の作品が並びました。
・プログラム(案)曲順未定
武満 徹《ノスタルジア》(1987) 独奏Vnと弦楽Orch
江村哲二《ハープ協奏曲》(1997) 独奏HpとOrch
江村哲二《 新作初演 》(2007)
〜アンドレイ・タルコフスキーの追憶に〜というサブ・タイトルを持つ《ノスタルジア》は,もちろんタルコフスキーの作品 "Nostalghia" に依っています。タルコフスキーの映画の特徴的なイメージである水や霧の感覚質(クオリア)が全曲を支配しています。
そして小生の《ハープ協奏曲》は,雨が上がったばかりの森の中,枝葉からほぼ規則的に落ちる雨だれと,葉の上に溜まった雨がその重みに耐えかねて不規則的(カオティック)にバラバラっと葉先からそのかたまりが落ちる二つの情景が通奏低音として全曲に流れています。
どちらも穏やかで静かな音響的風景が視覚的イメージに喚起されることが特徴です。そしてそれらの上に,今度は茂木さんの言語センスを借りて,また別のもうひとつの音楽体験を創れないかと考えているのです。
音楽から見ると言語というのはとても力強く頼もしいのですね。作曲家は女々しいけど作家は男性的(笑)。音楽に比べて解釈の余裕をあまり与えてくれない。しかし,そこに音を加えることでそれをオブラートに包むことができる。逆に音楽という表現は言語表現に比べればずっと抽象的であるわけです。かなり幅の広い解釈可能な余地をそこに残している。そしてそこに言語を加えることで曖昧模糊としたその原っぱに,あるひとつの誘導路を設けることができます。
そして私がいま考えていることは,時間軸上のその展開が,そのふたつにおいて,contingent(偶有的)な体験として作曲できないかということです。そしてその可能性の切り口のひとつに「朗読」があるのではないかと考えています。歌曲ではなくてです。
サルバトーレ・シャリーノというイタリアの作曲家は,レチタティーヴォとアリアの境界領域とも呼べる作法で極めてユニークなオペラを書いています。
http://www.horie-nobuo.com/ono/review/r06.html
もちろん,私はシャリーノのようなことをやるつもりはありませんが,音楽における言葉の叙述的扱い,そしてそこから受ける視覚的イメージへの喚起というのは,いま作曲家に与えられた非常に大きな可能性を秘めた領域ではないかと思うのです。
2006/10/01
新作構想
茂木さま,
今年の1月に《地平線のクオリア》(2005) というオーケストラ作品を発表しました。大野和士さんの指揮による新日本フィルと仙台フィルの初演です。武満さんの若い頃の傑作《地平線のドーリア》(1966) のタイトルと韻を踏んだようなタイトルを持つこの作品は,〜武満徹への追憶に〜 という副題が付いています。その初演時のプログラム・ノートから引用します。
「作曲とは聴くということ。それ以外の何でもない。このことを教えてくれたのは武満さんであった。自分の内なるところから湧き上がる音の響きにじっと耳を傾けること。それが作曲である。しかし,その響きは,あたかも地平線の上に在るが如く,それを手にしようと追いかけても,決してそれを実体として摑むことはできない。その響きは,私が私であるという証でもあり,自分という体験でしか語ることのできない《クオリア》である。そのクオリアへの果てしない憧れによって作曲家は作品を書き続けているのである。」
武満さんには,同じ頃のもうひとつの傑作として《テクスチュアズ》(1964) という作品があります。武満さんは(先の記事で書きました)作曲過程における我々の脳内に存在する「仮想としての響き」を聴き取ることこそが作曲であるといち早く気がついたひとであったように思います。「作曲」ということを「聴く」ということに還元してしまったひとであると言ってもいいと思います。そして,武満さんが語ったこの「テクスチュア」とは「クオリア」のことであったのだと気づかせてくれたのが,実は茂木さんの《脳とクオリア》(1997) なんです。
《地平線のクオリア》の作曲にはかなり長い時間がかかっていて,12分の規模に数年間はかかったように思います。そして4夜にわたるその初演を終えて,今回の自分の作品について内省しているうちに,次はテクストを伴った作品にしようとひらめきました。
自分のブログにも少し書きましたが,作曲というのは非常にローカルなマッピングで成立しているのであろうと思います。新しい作品が生まれてくる段階においてはグローバルな意味論はほとんど存在していない。しかし,ローカルなユニヴァーサリティと言ってもいいのでしょうか。そこにこそグローバルな可能性を秘めていると思うのですね。そしてそのことを特に強く感じさせるのがテクストの介在なのです。
今回の茂木さんとのコラボレーション作品,私はいま,茂木さんにはテクストを書いて頂けないであろうかと考えているのです。茂木さんは世界的な脳科学者であるけれども(私如きがこんなこと言うのは本当におこがましいのですが)それだけに留まることなく,茂木さんの言語表象が本当に素晴らしい。だから,私としてもそれを放っておく手はない(笑)。
しかし,今回のそれは,オペラとかモノドラマとかではなく,ストーリー性を曖昧にした,もっと抽象的な散文詩のようなもの,例えばドビュッシーの《牧神》におけるマラルメのエグローグようなものですね。そういうことを考えています。ただし,その抽象性のままにそれを明示的にしたいものですから,曲の中にその詩の朗読を入れてしまう。
でもそれは「歌」ではないのです。歌にしてしまうと,詩が歌詞になってしまって,歌が独奏になってしまうのですね。詩が歌詞になって独唱されてしまったとたんにその世界が矮小化してしまうことを感じることがよくあります。
つまり,詩は管弦楽と同じテクスチュアの中に入れてしまわなければならない。オケは大阪センチュリー交響楽団なんですが,2管編成の小さめのオーケストラなんです。それも幸いしています。打楽器はできるだけ少なくして,ハープ,チェレスタ,ピアノを入れる。そう,コンチェルト・グロッソに近い。コンチェルティーノに詩の朗読が入る。もちろん先の理由から古典的なコンチェルティーノ対リピエーノといったような形態は取りません。
加えて,初演される大阪のいずみホールは,基本的な内装が木で出来たとても柔らかな空間なんです。ちょっとウィーンの楽友協会に似ています。ステージがユニークなので,朗読を含めて楽器の配置もちょっと工夫しようかと考えています。
こう考えているときが一番楽しいときなのですが,茂木さん,いかがでしょうか。先々のことを考えると茂木さんが得意な英詩でもいいかもしれない。韻律が弦楽に乗りやすいですし。もちろん散文詩のそのテーマは相談しようと思っています。
江村哲二
今年の1月に《地平線のクオリア》(2005) というオーケストラ作品を発表しました。大野和士さんの指揮による新日本フィルと仙台フィルの初演です。武満さんの若い頃の傑作《地平線のドーリア》(1966) のタイトルと韻を踏んだようなタイトルを持つこの作品は,〜武満徹への追憶に〜 という副題が付いています。その初演時のプログラム・ノートから引用します。
「作曲とは聴くということ。それ以外の何でもない。このことを教えてくれたのは武満さんであった。自分の内なるところから湧き上がる音の響きにじっと耳を傾けること。それが作曲である。しかし,その響きは,あたかも地平線の上に在るが如く,それを手にしようと追いかけても,決してそれを実体として摑むことはできない。その響きは,私が私であるという証でもあり,自分という体験でしか語ることのできない《クオリア》である。そのクオリアへの果てしない憧れによって作曲家は作品を書き続けているのである。」
武満さんには,同じ頃のもうひとつの傑作として《テクスチュアズ》(1964) という作品があります。武満さんは(先の記事で書きました)作曲過程における我々の脳内に存在する「仮想としての響き」を聴き取ることこそが作曲であるといち早く気がついたひとであったように思います。「作曲」ということを「聴く」ということに還元してしまったひとであると言ってもいいと思います。そして,武満さんが語ったこの「テクスチュア」とは「クオリア」のことであったのだと気づかせてくれたのが,実は茂木さんの《脳とクオリア》(1997) なんです。
《地平線のクオリア》の作曲にはかなり長い時間がかかっていて,12分の規模に数年間はかかったように思います。そして4夜にわたるその初演を終えて,今回の自分の作品について内省しているうちに,次はテクストを伴った作品にしようとひらめきました。
自分のブログにも少し書きましたが,作曲というのは非常にローカルなマッピングで成立しているのであろうと思います。新しい作品が生まれてくる段階においてはグローバルな意味論はほとんど存在していない。しかし,ローカルなユニヴァーサリティと言ってもいいのでしょうか。そこにこそグローバルな可能性を秘めていると思うのですね。そしてそのことを特に強く感じさせるのがテクストの介在なのです。
今回の茂木さんとのコラボレーション作品,私はいま,茂木さんにはテクストを書いて頂けないであろうかと考えているのです。茂木さんは世界的な脳科学者であるけれども(私如きがこんなこと言うのは本当におこがましいのですが)それだけに留まることなく,茂木さんの言語表象が本当に素晴らしい。だから,私としてもそれを放っておく手はない(笑)。
しかし,今回のそれは,オペラとかモノドラマとかではなく,ストーリー性を曖昧にした,もっと抽象的な散文詩のようなもの,例えばドビュッシーの《牧神》におけるマラルメのエグローグようなものですね。そういうことを考えています。ただし,その抽象性のままにそれを明示的にしたいものですから,曲の中にその詩の朗読を入れてしまう。
でもそれは「歌」ではないのです。歌にしてしまうと,詩が歌詞になってしまって,歌が独奏になってしまうのですね。詩が歌詞になって独唱されてしまったとたんにその世界が矮小化してしまうことを感じることがよくあります。
つまり,詩は管弦楽と同じテクスチュアの中に入れてしまわなければならない。オケは大阪センチュリー交響楽団なんですが,2管編成の小さめのオーケストラなんです。それも幸いしています。打楽器はできるだけ少なくして,ハープ,チェレスタ,ピアノを入れる。そう,コンチェルト・グロッソに近い。コンチェルティーノに詩の朗読が入る。もちろん先の理由から古典的なコンチェルティーノ対リピエーノといったような形態は取りません。
加えて,初演される大阪のいずみホールは,基本的な内装が木で出来たとても柔らかな空間なんです。ちょっとウィーンの楽友協会に似ています。ステージがユニークなので,朗読を含めて楽器の配置もちょっと工夫しようかと考えています。
こう考えているときが一番楽しいときなのですが,茂木さん,いかがでしょうか。先々のことを考えると茂木さんが得意な英詩でもいいかもしれない。韻律が弦楽に乗りやすいですし。もちろん散文詩のそのテーマは相談しようと思っています。
江村哲二
2006/09/07
仮想としての「響き」の存在
茂木さま,
この分水嶺について「作曲過程」から考えてみます。
我々作曲家は対位法,和声法,楽式法など,いわゆる作曲学として確立された種々の学術大系のもとで作曲技法を学び,そしてそれらを駆使して作曲という営みを行っています。
我々作曲家の表現媒体である空気の振動現象「音」は,その基本4要素を,音高,音強,音価,音色とし,また,「音楽」の基本4要素は,旋律,和声,リズム,音色とされ,それを扱う学術大系として先述の作曲学が整備され,それら音楽の基本4要素を,音の基本4要素に落とし,五線紙上に確定し,記譜するための技法として,西洋近代科学の方法論のもと学術的にも確立していきました。
しかし,作曲家が新しい楽曲作品を創るとき,我々は決して旋律を考え,和声を考え,リズムを考えて作曲しているのではありません。楽音は確かに4つの基本要素(音高・音強・音価・音色)に分解可能であり,またその4つの要素でひとつの音は一意に決定されますが,音楽はその4つの基本要素(旋律・和声・リズム・音色)に分解することは本来不可能であって,またその4つの要素を組み合わせても音楽にはなりません。
作曲家は,新しい音楽を創る過程では,旋律も和声もリズムもさらに音色もすべて混然一体となった,いわば「仮想としての響き」を,そしてその時間的変化を,作曲者自身のメンタル・スペースの中で表象しているのであって,その過程はかなり強い非線形性を持っていると考えざるを得ません。
なぜなら,システムの対象が,その要素に分解でき,かつ分解された要素を組み立てることで元の対象が再現可能となる「重畳の理」が成立する線形空間では説明できないからです。よって,AnalysisとSynthesisが可換な空間ではないのが「音楽」の世界であって,そのような非線形な空間における作業は「構成論的方法」(Analysis by Synthesis)に依らざるを得ません。トップダウン的な演繹過程ではないのですね。ボトムアップ的な創発過程と言ってもいいかもしれません。
そして次にこのことを,仮想としての響きではなく,現実の響き(つまり楽曲)を聴いているときのことで考えてみますと,その楽曲を構成しているある要素を中心に捉えながら聴いているときと,それら数々の要素が織りなすテクスチュアを聴いているときがあり,その認知過程の対象が,時間とともに素早くかつ不規則に移り変わることを経験することがあります。ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》第1幕の前奏曲などはその典型です。
しかし,視覚認知にある「ネッカー・キューブ」や「ルビンの壷」あるいは「老婆と若い女」の図などで知られる視覚認知におけるバインディング・プロブレムは,聴覚認知の,特に「音楽」の認知においては明示的には生じていないと考えています。つまり,"winner-take-all competition" ではないのですね。
つまり,音楽の認知過程(音の認知過程ではなく)においては,視覚認知のような "winner-take-all" ではない,ambivalentな偶有性にその面白さが隠されているのではないかと思います。そしてそれが音楽を意味として接地させるときの分水嶺になっているのではないかと考えています。
脳科学の専門でいらっしゃる茂木さんは,そのあたりのことをどのようにお考えであるか,とても興味のあるところです。
この分水嶺について「作曲過程」から考えてみます。
我々作曲家は対位法,和声法,楽式法など,いわゆる作曲学として確立された種々の学術大系のもとで作曲技法を学び,そしてそれらを駆使して作曲という営みを行っています。
我々作曲家の表現媒体である空気の振動現象「音」は,その基本4要素を,音高,音強,音価,音色とし,また,「音楽」の基本4要素は,旋律,和声,リズム,音色とされ,それを扱う学術大系として先述の作曲学が整備され,それら音楽の基本4要素を,音の基本4要素に落とし,五線紙上に確定し,記譜するための技法として,西洋近代科学の方法論のもと学術的にも確立していきました。
しかし,作曲家が新しい楽曲作品を創るとき,我々は決して旋律を考え,和声を考え,リズムを考えて作曲しているのではありません。楽音は確かに4つの基本要素(音高・音強・音価・音色)に分解可能であり,またその4つの要素でひとつの音は一意に決定されますが,音楽はその4つの基本要素(旋律・和声・リズム・音色)に分解することは本来不可能であって,またその4つの要素を組み合わせても音楽にはなりません。
作曲家は,新しい音楽を創る過程では,旋律も和声もリズムもさらに音色もすべて混然一体となった,いわば「仮想としての響き」を,そしてその時間的変化を,作曲者自身のメンタル・スペースの中で表象しているのであって,その過程はかなり強い非線形性を持っていると考えざるを得ません。
なぜなら,システムの対象が,その要素に分解でき,かつ分解された要素を組み立てることで元の対象が再現可能となる「重畳の理」が成立する線形空間では説明できないからです。よって,AnalysisとSynthesisが可換な空間ではないのが「音楽」の世界であって,そのような非線形な空間における作業は「構成論的方法」(Analysis by Synthesis)に依らざるを得ません。トップダウン的な演繹過程ではないのですね。ボトムアップ的な創発過程と言ってもいいかもしれません。
そして次にこのことを,仮想としての響きではなく,現実の響き(つまり楽曲)を聴いているときのことで考えてみますと,その楽曲を構成しているある要素を中心に捉えながら聴いているときと,それら数々の要素が織りなすテクスチュアを聴いているときがあり,その認知過程の対象が,時間とともに素早くかつ不規則に移り変わることを経験することがあります。ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》第1幕の前奏曲などはその典型です。
しかし,視覚認知にある「ネッカー・キューブ」や「ルビンの壷」あるいは「老婆と若い女」の図などで知られる視覚認知におけるバインディング・プロブレムは,聴覚認知の,特に「音楽」の認知においては明示的には生じていないと考えています。つまり,"winner-take-all competition" ではないのですね。
つまり,音楽の認知過程(音の認知過程ではなく)においては,視覚認知のような "winner-take-all" ではない,ambivalentな偶有性にその面白さが隠されているのではないかと思います。そしてそれが音楽を意味として接地させるときの分水嶺になっているのではないかと考えています。
脳科学の専門でいらっしゃる茂木さんは,そのあたりのことをどのようにお考えであるか,とても興味のあるところです。
2006/08/01
音楽の分水嶺
茂木さま,
言語表現とよく比較され論じられることの多い音楽表現ですが,音を言葉のように「意味」に着地して聴くか、あるいは「音楽」として聴くか,ということは大変な分水嶺である,というご指摘に同意です。
モーツァルトは母への手紙の中で,僕は言葉はうまく扱えないし,身振り手振りもうまく出来ない。でも,僕は音ならそれができるのです,といったようなことを書いています。
詩歌や小説のような言語表現,バレエやダンスのような身体表現,そして音楽表現と,各々の表現者によってそれぞれのメディアは異なっているものの,根幹にある最も重要なことは,そのようなメディア以前に,表現したいことがまず在る,ということだと思います。
ちょっと逆説的な表現になりますが,私の場合も,音を扱うことがたまたま得意であったから音楽家をやっているに過ぎないとも言えます。もし,語ることが得意だったら,躯を動かすことが得意であったら,絵を描くことが得意であったら,それぞれまた違ったメディアを扱ってそれを表現していたかもしれません。
しかしながら,これは特に言語や絵画と比較してのことなのですが,音楽という表現は,そもそもがきわめて抽象的な表現であるように思います。
決まって夜明け前の早朝に起きて仕事をする私は(この文もいまそのような時間に書いていますが)例えば,この清々しい早朝を表現したとき,文学や絵画では,恐らく多くのひとが,それをそのように感じ取ってくれると思いますが,ところが音楽の場合は,いくら早朝の清々しさを音にしても,それをそうとは聴いてくれない可能性は非常に高い。
これは音楽表現の持つ特異性だと思うのです。「聴く」ということは創造的行為であると思っています。音楽は聞く hear のではなく聴く listen のですね。鳴り響く音と対峙し,どのようにそれを聴くのか,といった積極的な過程において,聴取者の各々の脳内に,各々の音楽が鳴り響くのであろうと考えています。少なくともクラシック音楽のような音楽では,BGMのように聞いていては何も聞こえてきませんし,聴かなければ創造され得ないコトだと思っています。
そこで,その「聴く」というコトによって自分の脳内に創造された音楽は,あたかも言葉のように「意味」解釈され得るものなのか,それとも,音楽という音響現象の,音のテクスチュア(texture)として聴いているのか,といった大きな違いがあります。
ご指摘のように,まさしくそこは音楽を語る上で大変な「分水嶺」であると思っております。最初から音楽の本質に迫るテーマを与えて下さったと感謝しております。このあたりでまずはお返し致します。
江村哲二
言語表現とよく比較され論じられることの多い音楽表現ですが,音を言葉のように「意味」に着地して聴くか、あるいは「音楽」として聴くか,ということは大変な分水嶺である,というご指摘に同意です。
モーツァルトは母への手紙の中で,僕は言葉はうまく扱えないし,身振り手振りもうまく出来ない。でも,僕は音ならそれができるのです,といったようなことを書いています。
詩歌や小説のような言語表現,バレエやダンスのような身体表現,そして音楽表現と,各々の表現者によってそれぞれのメディアは異なっているものの,根幹にある最も重要なことは,そのようなメディア以前に,表現したいことがまず在る,ということだと思います。
ちょっと逆説的な表現になりますが,私の場合も,音を扱うことがたまたま得意であったから音楽家をやっているに過ぎないとも言えます。もし,語ることが得意だったら,躯を動かすことが得意であったら,絵を描くことが得意であったら,それぞれまた違ったメディアを扱ってそれを表現していたかもしれません。
しかしながら,これは特に言語や絵画と比較してのことなのですが,音楽という表現は,そもそもがきわめて抽象的な表現であるように思います。
決まって夜明け前の早朝に起きて仕事をする私は(この文もいまそのような時間に書いていますが)例えば,この清々しい早朝を表現したとき,文学や絵画では,恐らく多くのひとが,それをそのように感じ取ってくれると思いますが,ところが音楽の場合は,いくら早朝の清々しさを音にしても,それをそうとは聴いてくれない可能性は非常に高い。
これは音楽表現の持つ特異性だと思うのです。「聴く」ということは創造的行為であると思っています。音楽は聞く hear のではなく聴く listen のですね。鳴り響く音と対峙し,どのようにそれを聴くのか,といった積極的な過程において,聴取者の各々の脳内に,各々の音楽が鳴り響くのであろうと考えています。少なくともクラシック音楽のような音楽では,BGMのように聞いていては何も聞こえてきませんし,聴かなければ創造され得ないコトだと思っています。
そこで,その「聴く」というコトによって自分の脳内に創造された音楽は,あたかも言葉のように「意味」解釈され得るものなのか,それとも,音楽という音響現象の,音のテクスチュア(texture)として聴いているのか,といった大きな違いがあります。
ご指摘のように,まさしくそこは音楽を語る上で大変な「分水嶺」であると思っております。最初から音楽の本質に迫るテーマを与えて下さったと感謝しております。このあたりでまずはお返し致します。
江村哲二
2006/07/26
江村さまよろしくお願いいたします。
江村さま、よろしくお願いいたします。
音楽についていろいろと考えるよい機会にさせていただくとともに、江村さんの創作活動に少しでもお役に立てれば幸いです。
音楽というのは大変な可能性をもった芸術ジャンルであり、かくなる私は青年の一時期作曲家が一番偉いと嫉妬しておりました。
脳の働きという視点から見ても、音を言葉のように「意味」に着地する者として聴くか、あるいは「音楽」として聴くか
ということは大変な分水嶺であるように思います。
今後とも、この場、あるいはリアル・スペースでのコラボレーションにつきましては、
ぜひ麗しき魂の交感を楽しみにしております。
茂木健一郎
音楽についていろいろと考えるよい機会にさせていただくとともに、江村さんの創作活動に少しでもお役に立てれば幸いです。
音楽というのは大変な可能性をもった芸術ジャンルであり、かくなる私は青年の一時期作曲家が一番偉いと嫉妬しておりました。
脳の働きという視点から見ても、音を言葉のように「意味」に着地する者として聴くか、あるいは「音楽」として聴くか
ということは大変な分水嶺であるように思います。
今後とも、この場、あるいはリアル・スペースでのコラボレーションにつきましては、
ぜひ麗しき魂の交感を楽しみにしております。
茂木健一郎
2006/07/25
トランスミュージック2007
サントリー音楽財団主催「トランスミュージック」
2003年からスタートした新シリーズ「トランスミュージック(*)対話する作曲家」は、旬の作曲家たちと、音楽の新しい方向性や可能性を探っていこうとするもので、従来のコンサート形式にこだわらない、新しい演奏会を提案。毎回ゲスト・アーティストを招き、作曲家自身のことばや演出、ゲストとのコラボレーションを通じて、ジャンルにとらわれない作曲家の多彩な音楽活動の世界をご紹介します。同シリーズを通じて音楽ファンのみならず、多くの方に、同時代の作曲家とその音楽世界に少しでも関心をお寄せいただきたいと考えています。(以上,サントリー音楽財団ニュースリリースより抜粋)
過去のシリーズ一覧:
第1回 2003年5月23日 いずみホール
猿谷紀郎 × メディア・アーティスト 岩井俊雄氏
第2回 2004年5月22日 ザ・シンフォニーホール
権代敦彦 × ビデオ・アーティスト 兼子昭彦氏
第3回 2005年5月30日 いずみホール
伊左治直 × イラストレーター 名倉靖博氏
第4回 2006年5月21日 ウルトラマーケット
三輪眞弘 × 人類学者 中沢新一氏
来る2007年度は,小生江村哲二をテーマ作曲家に,近年幅広いフィールドでご活躍の茂木健一郎さんをお迎えして開催することに決定致しました。
第5回 2007年5月26日 いずみホール
江村哲二 × 脳科学者/作家 茂木健一郎氏
そこで,来年の本番に於ける「対話」のみならず,本番に至るまでの両者の対話を公開して,来年初演の新作オーケストラ作品がどのように生まれていったかを,広く皆さんに知って頂けるようにブログ形式で不定期に二人の通信を公開することにしました。もちろん,これは主催者のサントリー音楽財団の意向でもあります。
尚,この二人はすでに自分のブログを立ち上げており,両者ともに毎日更新をモットーに各々日々の想いを綴っております。
茂木健一郎:http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/
江村 哲二:http://tetsujiemura.blogzine.jp/
それらと併せて,ぜひこのブログ(このブログの更新は不定期となろうかと思いますが)を,ご高覧頂きたく宜しくお願い申し上げます。
江村哲二 拝
2003年からスタートした新シリーズ「トランスミュージック(*)対話する作曲家」は、旬の作曲家たちと、音楽の新しい方向性や可能性を探っていこうとするもので、従来のコンサート形式にこだわらない、新しい演奏会を提案。毎回ゲスト・アーティストを招き、作曲家自身のことばや演出、ゲストとのコラボレーションを通じて、ジャンルにとらわれない作曲家の多彩な音楽活動の世界をご紹介します。同シリーズを通じて音楽ファンのみならず、多くの方に、同時代の作曲家とその音楽世界に少しでも関心をお寄せいただきたいと考えています。(以上,サントリー音楽財団ニュースリリースより抜粋)
過去のシリーズ一覧:
第1回 2003年5月23日 いずみホール
猿谷紀郎 × メディア・アーティスト 岩井俊雄氏
第2回 2004年5月22日 ザ・シンフォニーホール
権代敦彦 × ビデオ・アーティスト 兼子昭彦氏
第3回 2005年5月30日 いずみホール
伊左治直 × イラストレーター 名倉靖博氏
第4回 2006年5月21日 ウルトラマーケット
三輪眞弘 × 人類学者 中沢新一氏
来る2007年度は,小生江村哲二をテーマ作曲家に,近年幅広いフィールドでご活躍の茂木健一郎さんをお迎えして開催することに決定致しました。
第5回 2007年5月26日 いずみホール
江村哲二 × 脳科学者/作家 茂木健一郎氏
そこで,来年の本番に於ける「対話」のみならず,本番に至るまでの両者の対話を公開して,来年初演の新作オーケストラ作品がどのように生まれていったかを,広く皆さんに知って頂けるようにブログ形式で不定期に二人の通信を公開することにしました。もちろん,これは主催者のサントリー音楽財団の意向でもあります。
尚,この二人はすでに自分のブログを立ち上げており,両者ともに毎日更新をモットーに各々日々の想いを綴っております。
茂木健一郎:http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/
江村 哲二:http://tetsujiemura.blogzine.jp/
それらと併せて,ぜひこのブログ(このブログの更新は不定期となろうかと思いますが)を,ご高覧頂きたく宜しくお願い申し上げます。
江村哲二 拝